水戸黄門の旅の本当の目的は美女探し
ざくっと都市伝説
- 水戸黄門の旅の内容は記録されていない。
- 美人が秋田に行ってしまったあとの水戸を治めたのが水戸黄門。
- 「美女探し」では節操がないので「世直し」ということで旅した。
TBSの長寿番組だった水戸黄門。水戸の藩主徳川光圀が助さん角さんを連れ世直しのため日本各地を旅する内容だったが、実際に旅をした史実は一切ない。
記録を残せなかったのは、旅の目的が世直しではなく、本当は「美女探し目的」だったからである。
徳川家康が天下をとるまで、水戸を治めていたのは佐竹義宣という武将。
佐竹は、超がつくほどの女好きで、関東中から美女を集めさせ、特に気に入った美女は側室として招き入れていた。当時、水戸は世の男が憧れる「美女の町」だった。
そして、天下分け目の戦い、関ヶ原の合戦が起こり、徳川家康の東軍が勝利し、天下をとることになった。
佐竹が西軍であれば領地没収で、水戸は徳川のものだった。しかし佐竹は、東軍、西軍どちらにも付いていなかった。
美女の町水戸を手に入れたかった家康は、佐竹をある種島流しのように左遷した。
美女の町を手に入れたと喜んだ家康だったが、水戸には美人がいなかった。佐竹は左遷され別の地へ移るときに、美女も一緒に連れて行っていたのだ。
ちなみに佐竹が左遷されたのが、現在の秋田県。秋田美人という言葉が生まれたのは佐竹のおかげかもしれない。
佐竹の代わりに水戸を治めたのが、水戸黄門こと徳川光圀。
光圀は「美女のいない町」になってしまった水戸を嘆き、美女探しの旅に出た。美女探しの旅というのはあまりにも節操がないため、「世直し」という名目の旅になった。旅の内容が「美女探し」であるため、旅の内容は、一切記録されていない。