ジョン万次郎はフリーメーソンのエージェント
- 貧しい漁師の息子が海を漂流。
- アメリカの捕鯨船に助けられる。
- 普通では考えられない人脈。
幕末の日本で日米和親条約の締結に尽力した人物、ジョン万次郎の銅像が立つ足摺岬。
そこに立つジョン万次郎の銅像は、右手は強く握りしめ、左手にはフリーメイソンのシンボルマークでもある直角定規とコンパスを持っている。
ジョン万次郎(中濱万次郎)は土佐清水の中浜に貧しい漁師の子。黒潮に流され、伊豆諸島の最南端の鳥島に漂着しました。1841年6月27日に、アメリカの捕鯨船ジョン・ホーランド号のウィリアム・ホイットフィールド船長に救出された。
漂流してから5年、捕鯨の仕事に就き、一等航海士となり3年後には、乗っていたフランクリン号の副船長にも選ばれた。
万次郎は故郷が恋しくなり、ゴールドラッシュのカリフォルニアに行き、一儲けして旅費を稼いで、日本に帰ったとされているが疑問がある。
お世話になった船長に十分な恩返しもせずに、いきなり日本に帰国するとは、当時の日本人の道徳観では理解できない行動。
当時の高額な海外渡航費を簡単に採取している。
ただの漂流した日本人漁師の少年がアメリカに滞在しているわずかな期間に、ペリー家、ルーズベルト大統領の祖父にあたるワレン・デラノの名門デラノ家とも人脈を築いている。
貧しい漁師の子供が、当時の士農工商の身分制度を飛び越えて、いきなり幕府の旗本になっている。
フリーメーソンであったペリー提督の孫娘が、アメリカのクルー駐在大使夫人として長く日本に滞在し、万次郎とのつながりで、ずっと中濱家と親しくしている。
多くの維新の志士たちに影響を与え、土佐藩の教授館で坂本龍馬、河田小龍、後藤象二郎たちに教えた西洋事情は、龍馬と後藤象二郎が長崎から土佐に向かう船の中で作った 「船中八策」 に生かされ、それがのちに明治新政府の綱領 「五箇条の御誓文」 の基礎案となっており、開国、日米修好通商条約、明治維新に大きな貢献を果たしている。
ジョン万次郎がフリーメーソンであったという事実は、正式な記録として文書に残されていないが、フリーメーソンのエージェントとし教育され、日本に送り返されたのではないだろうか。