イースター島の文明が滅んだ理由
- イースター島の文明は4世紀ごろに始まり19世紀に滅んだ。
- 文明確認から50年後には崩壊している。
- 環境破壊・食料不足・部族抗争・伝染病
巨大彫刻物モアイ像で有名なイースター島は、海底火山の噴火によってできた火山島で、島に最初の移民がたどり着いたのは4世紀ごろとされている。
この移民はポリネシア人で、酋長を中心とする部族社会で階級制度によって成り立っていた。
偉大なる祖先は崇拝の対象であり、祖先を祀る習慣から墓碑としてモアイが作られたとされるが、モアイの独特の形状は他に例がないため本当の建造目的は未だ謎となっている。
モアイは900年代から1700年代前半ごろまで作られ、モアイの姿は時代と共に姿が変わっている。
第1期のモアイは人型で顔だけでなく下半身まで作られている。
第2期は下半身がなくなりお腹辺りで手を組んでいる。
第3期は頭上に髪飾りなどがある。
第4期が多くの人が連想する長い顔のモアイ像。
イースター島文明の崩壊
有人島から2000km余り離れているイースター島は、1722年オランダ海軍に発見されるまで外敵もなく文明を繁栄させていた。
しかし、約50年後1774年にイギリスの探検が上陸すると、多くのモアイ像が倒れ壊され、山肌には製造途中のモアイ像が放置されているのを目にしている。島中に骸骨が転がり、島民の生活は石器時代とほとんど変わらないものになり、イースター島の文明は崩壊していた。
イースター島の文明が滅んだ理由
伝承されているモアイ像の製造、運搬、設置では大量の木材が使用されている。モアイ製造のための森林伐採などによって環境破壊が起こった。森林がなくなったことで養分を含んだ土壌は流れだし、食物を栽培することが難しくなり、魚を釣るための竿や船を作ることもできず食料不足となった。
絶海の孤島であるイースター島に他所から資源は入ってこない。残された資源をめぐってモアイ倒し戦争といわれる部族間抗争が勃発。この抗争によってすべてのモアイ像は倒されしまった。(20世紀以降クレーンなどによって起こされている。)
食糧不足と部族間抗争によって、1872年には島民はわずか111人になり文明は完全に崩壊した。
この文明崩壊までのプロセスは現島民が伝承している話だが、現島民のほとんどは当時の島民の血を引いておらず、外部からの移民者であるためこの伝承をどこまで信じていいか不明。また、抗争で武器として使われたとされる「ヤリのようなもの」を解析すると、農作業用の道具で殺傷能力があるものではないく、また現地調査からも科学的根拠が低いとされている。定説でありながら信ぴょう性は低いとされている。
1700年代当時ヨーロッパでは敵国殲滅のために、感染症である天然痘を誘発・流行させる戦術もあり、インディアン殲滅などで絶大な効果を発揮した。イースター島の発見はこの時期で、天然痘が島に持ち込まれてしまった可能性が非常に高い。
モアイ像を倒すヨーロッパ人の様子が描かれたスケッチも残されており、イースター島はヨーロッパの侵攻により滅ぼされた可能性がある。